18世紀になると、ブリテンの支援を受けたポルトゥガルが、南アメリカで植民地(ブラジル)を拡大していきました。植民地貿易にはイングランド貿易商人が割り込んでいました。ポルトゥガル王室の財政収入も増えました。
一方、王室財政が破綻状態になったエスパーニャは、ポルトゥガル=イングランド連合の膨張圧力に屈して、やむを得ず、南アメリカのいくつかの地方を巨額の補償金と引き換えに手放すことになりました。
エスパーニャがポルトゥガル植民地、ブラジルに売り渡すことになった地方には、この映画で描かれたラプラータ河上流域にある「イエズス会布教区」が含まれていました。
エスパーニャ王権は、教会の影響(勧告)を受けて、アメリカ植民地において奴隷売買を禁止する王令を出していました。ところが、とりわけ植民地では、規制の免除を受ける税金を払えば、奴隷の売買は黙認されていました。
現地の政治と経済の支配者が奴隷の売買と労働を必要としていたからです。
ところで、植民地売り渡しの動きはたんにエスパーニャとポルトゥガルとの力関係にとどまる問題ではありません。
それは始まりつつある世界経済全体の構造転換の1つの兆候だったのです。
じつはブラジルは、名目上はポルトゥガルの植民地ではあったのですが、ポルトゥガルの支配から実質的かつ全体的に離脱しつつありました。エスパーニャのアメリカ大陸植民地も、事情は同じでした。
大がかりな植民地経営は、系統的に世界貿易を管理・組織する能力がないと、もはやできない状況になっていたのです。
アメリカ大陸には、しだいにブリテン商業資本の力が浸透しつつあったのです。ブリテン本国では、シティの金融資本や貿易資本の最優位のもとで「産業革命」が進展していました。
とりわけ南アメリカでは、植民地での貿易・商業や工業および農業などの基盤づくりのために、ロンドンの金融商人の投資が活発化し、彼らが組織した独特の金融循環を土台に、ブリテンの有力な貿易業者の組織力・影響力が拡大していたのです。
貴族・地主階級は、土地経営からあがる利潤を、金融商人をつうじて、世界貿易や製造業に投資していました。
つまりは、エスパーニャおよびポルトゥガルの植民地帝国の実質的な空洞化ないし崩壊のプロセスが目に見えて進んだ時代だったのです。ブリテンの覇権が浸透し始めたということです。
パクス・ブリタニカの曙光を浴びて、イベリア諸王権の帝国は没落・解体していったのです。
イングランドには、17世紀の諸革命を例として、「民主主義の母国」などという誤ったレッテルが貼られています。ところが、むしろ市民革命後にこそ、きわめて精力的に奴隷貿易の開拓・開発を世界的規模で推し進めていたのです。
それが、ブリテン企業の利潤の獲得と資本蓄積の有力な手段だったのです。産業革命の背後には、こういう醜悪な力がはたらいていたのです。
インディオとイエズス会修道士の虐殺といういまわしい事件の背後には、こういう世界経済の権力構造の大変動があったわけです。
この点では、つまり倫理的・道義的には、ブリテンはエスパーニャよりもはるかに「後進国」だったといえます。当時のヨーロッパには、その程度の政治思想や倫理しかなかったということでしょう。
利潤のためには奴隷狩りやインディオ虐待もいとわない・・・ブリテンで産業革命が始まると、機械の導入にともなって労働者への容赦のない圧迫や虐待が目立つのは、けだし当然だったともいえます。
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