以上で映像物語は終わる。
原作のシリーズは、この作品のあとも続けて映画化されるはずだったが、でき上がった「V」を観た原作者が失望して、このあとの映画化を拒否したという。
「V」については、原作と映画とでは、すっかり物語が違っている。登場人物も相当に異なっているし、そもそも筋立てそのものが組み換えられてしまっているという。
原作では、Vはイーヴィの父親――実験台にされて「怪物」になってしまった――かもしれないという物語の伏線が張られているらしい。そして、Vの死をみとったイーヴィは、父の遺志を継いで自分がVになり代わり同じ装束をまとって、独裁レジームへの攻撃と民衆の解放のために闘い続けるのだという。
ところで、ヨーロッパではブリテンが一番全体主義的レジームが出現・成立しにくい政治的・社会的土壌を持っているように、一般に見られているにもかかわらず、原作者たちは、ブリテンでノースファイアーの独裁政権が成立するという状況設定をおこなっている。
全体主義的レジームが成立しにくいということは、支配階級が現存のレジームの持続を望んでいて、その維持を求めているということだ。つまりは支配階級の最優位・利害が、ほぼ望みどおりに貫徹できるレジームだからだ。
どれほど民衆、一般市民が政治過程に参加しているような外観をもっていても、ひどい格差を生む構造、言い換えれば支配階級の特権的立場が――スマートかつ臆面もなく露骨に――保持しうるようなシステムになっているということだ。だから、あえてリスクの高い専制的統治構造を持ち込む必要はないという判断が、最有力の階級のメンバーに共有されているのだ。
原作は1980年代に構想されていった。
このような原作=発想が、反体制=批判的思想の持ち主たちのなかに生まれたのは、ブリテンのデモクラシーについて強い危機感があったためだと思われる(私の独断)。
それというのは、サッチャー政権による「保守革命」が、世界金融にコミットする特権階級の利害を最優先するために、一般民衆の生活基盤を掘り崩すような改革をとことん推進していったからだ。福祉制度の切り崩しや産業基盤の弱体化、都市の貧困と格差の深刻化が、サッチャー時代に極端に進んだのだ。
国民健康医療制度NHSや公教育制度が今日、深刻な財政危機で機能マヒないし解体の危機に瀕しているが、その最大の原因を生み出したのが、サッチャー政権の「改革」だったという。
日本やアメリカの主流の論調では、サッチャー主義はブリテンが金世界融や世界貿易の恩恵をより多く受ける政治的・経済的制度への転換をなしとげたという意見が支配的だ。だが、それは特権的な巨大資本や金融資本から見ての恩恵や利益であって、弱小産業や地方都市や大都市の周縁部では衰退や窮乏化、生活基盤の後退が深刻化した。
いわば弱肉強食の論理の「自由な貫徹」がより露骨にもたらされたのだ。
つまりは、中下層民衆の生活条件を切り崩して、世界経済に直接コミットする巨大資本のために、国民経済の保バランスを維持する仕組みが切り崩されていったわけだ。
まあ、でもその結果、ブリテン民衆の生活水準はかなり低下し、その分、国際的に見た賃金水準が相当に低下したから、外国資本から見れば、ブリテンへの投資は安価な労働力を手に入れるための条件を用意した。だから、やがて、ブリテンへの外国資本=製造業の直接投資額は急増した。
そして、経済全体の世界金融への関与は広く・深くなっていった。だが、世界金融へのコミットメントの深化は、先頃の世界金融危機によるブリテン経済へのダメイジをより大きく深いものとした。
今、日本もその後追いをしているのだが…。
つまりは、実質的内容から見れば、ブリテンの民主主義は一般民衆の権利や立場を保護する社会的安定装置を破壊したという意味において、80年代に後退したというべきなのかもしれない。具体的な制度変更を点検すると、まさに右翼保守派が独裁政権を敷いて民衆から権利を奪っていったのとあまり変わらない政治がおこなわれた。原作者たちのような批判派から見れば、そういう状況だったのではないだろうか。
ブリテン社会の格差の深刻化は、「安定した民主主義」のための仕組みとされてきた「2大政党制」の機能不全と危機の深刻化をもたらしたようだ。労働党の指導部も、階級的には保守党と似た構造になってきて、オクスブリッジ出身のテクノクラートやエリートの影響力が強まってきた。
労働党内には他方に、旧弊な左翼労働組合主義も根強く残存していて、市民多数派のリベラリズムや急進改革派の政治的要求が反映される場がないようだ。
その結果、ブリテンの政治的辺境として、伝統的に労働党の根強い支持基盤をなしてきたスコットランドで、労働党の基盤を掘り崩しながら独立派SNP(スコットランド国民党)が躍進してきた。サッチャー政権以来のイングランドの保守主義、つまり市場の構造的暴力を容認する政治に辟易した市民がかなり多数派になっているのだ。
一方、イングランドでも保守派も労働党も内部に深刻な分裂を抱えることになっている。とくに保守派では、社会福祉や失業手当の財源危機をめぐって移民の制限や禁止を求める民衆が、保守党に代わって、EUからの分離を求める独立党を支持するようになっている。
そして特権階級化したブリテン議会議員たちの恥知らずな行動スタイルの数々が暴かれてきてから、2大政党制への不信どころか、議員選挙制そのものが、いまや民主主義を腐敗させる原因となっていると批判されるようになっている。現在の選挙制度では富と権力、組織なしには選挙戦を担うことができないために、富裕諸階級や有力組織からしか代表が選ばれない小選挙区制や政党制も民衆の冷たい視線を浴びている。
こういう危機感を反映したのが、原作成立の背景にあったのではないか。裁判所やウェストミンスター議事堂の爆破というような過激なシーンは、そういう民衆の気分を反映しているような気がする。日本のゴジラ映画初版では、怪獣は国会議事堂を破壊しないで海に帰っていった。それとは対照的なシークエンスだ。
もちろん、私の勝手な憶測だが。
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